(127)或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪・膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。
答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。(貝原益軒『養生訓』)
義&秩序 V.S. 養生&社会福祉
という構図を描くひとに対して、平時の養生あってこそ、危急の際に献身的に奉仕できる、と反論したわけです。
統一教会批判のほぼすべては、わたしの知る限りでは小人の論理だとおもう。たしかに個人の利益や人権等、いくらでも突っ込みどころはあるし、それを法で抑制していく民主社会があることは非常に素晴らしい。それもまた命をかけて守らねばならない価値だとおもう。ただ、それにドップリ浸かってしまっていては、ひととして生きる道が霞んでくる。しかも霞んできていることにすら気付かない。
それに加えて、非宗教の顔をした宗教が文化面に姿を変えて社会の隅々に潜んでいるから、問題をむつかしくしている。
おもしろいブログを発見
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1118006
「統一教会」って何それ〜、アタシわかんな〜い
新聞記者、広告編集、翻訳・通訳、ITビジネス、イギリス留学をへて、高校英語教師。 だそうです。
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